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ひまわり

こんにちは、二回目の投稿、ブレインです。

前回はわりとおちゃらけた内容だったのですが() 今回は真剣モードで書きます(゜_゜>)

というのも10日から15日まで岩手県の陸前高田市 震災復興のボランティアに行ってきました。

内容はしおをかぶった田んぼにひまわりを植えよう!というものです。

私は個人的に今年の三月、震災からちょうど一年たったころに 単身東北へ乗り込みました! 観光で少しでも東北にお金が落ちれば、と なけなしのお金を持って青春18きっぷで宮城、岩手、山形、福島をまわりました。

冬の奥羽山脈を横目で見ながら鈍行列車に揺られる自由気ままな旅は 大変自分にとって素敵な体験になりました。

途中ヒッチハイクをしたり(←寝過ごしたw) これに乗り遅れたら帰れない!という電車に乗り遅れそうになったり(←迷ったw)

その都度東北の人の温かさを感じました(憐れすぎてたすけてくだすった説濃厚。)

まだまだ余震の続く中、津波の被害をもろに受けたテレビでよく見たあの被災地、と言われる地域へ赴くのは少々気が引けてしまい 結局列車沿線の観光地をまわっただけだったので 自分の目でその悲惨な現状を見ることはかないませんでした。 と同時にそのことがとても心残りでした。

そんなこともあって今回大学から定員30名弱という制限つきでボランティアの募集がかかり、 真っ先に応募するに至ったのでございまする。

とはいえ交通手段はなんと!バス。

片道丸々24時間の長旅 うーん、ヘビィ・・・。

自転車で博多から小倉まで行ったり(片道6時間。帰りはチャリ置き去りで帰宅←) 東京から愛媛まで鈍行列車で帰ったり(始発で東京を出て16時間。お尻が死んだ)

そんな無茶苦茶な所業をなしてきた私でさえも躊躇するレベルwww

またいだ府県はなんと15。驚き桃の木山椒の木!(古い) もうこのバス旅を経験した後ならおそらくどんな長距離移動もへっちゃらだぜ!☆ というかこれ以上の距離をバスで移動することはもう二度とあるまい・・・。

宮城で高速を降り海沿いを走ります。 石巻、女川、南三陸、気仙沼、そして陸前高田。

幾度となく聞いた地名、バスは通過していきます。


傾いた建物。


殺風景な街、というかもはや街ではない景色。


以前はきっとにぎやかな住宅街だったのでしょう


鉄骨の建物の構造だけがむなしく残る風景


流された家はどこに?まだ基礎だけがそのままでした

1年以上たった今でも、あの時テレビで見た風景はまだそのままでした。

行けば少しはリアリティがあるかな?と思ったけれど 人もおらずその荒れた街の跡だけが残る景色には どうしても現実感をつかめませんでした。 まるで映画の中。 テレビで見たときとほとんど変わらない印象しか抱けない自分に 驚きと同時に非情さを覚えたのも事実です。

陸前高田市には11日の夜、はいりました。


さっそくの歓迎ムードで地元の方たち、 またボランティアのメンバーともここにきてようやく交流を図りました。 今回のメンバーは学生だけでなく福岡の一般社会人の方たちも多くいらっしゃいました。 満席のバスに24時間・・・。 おじさまたち、すごい!!!

翌日からは早速作業です。

まちを歩けば痛々しい津波の跡をまざまざとみることができます。 私たちが作業した陸前高田市の矢作地区は、海も見えなければ山に囲まれたのどかな田園地帯で まさかここまで津波が来るなんて、だれも想像しないと思います・・・。 でも実際はガードレールはぐにゃぐにゃで、 住宅も2階部分まですっかり水に浸かったのでした。


10ha近くもある広大な畑にみんなでひまわりの種をまきました。



学生も地元の方も子供たちも一緒になっての作業です。

風が強くて寒かったけど、何とか頑張りました! 二日間の作業ののち、高田市内を視察に行きました。

こんな丈夫そうな橋までも・・・。

陸前高田市の復興のシンボル。 以前たくさん生えていた松。 一帯松林だったそうです。 とびぬけて大きかったこの一本だけが、今でも流されずに残っています。 ただ、この松ももう枯れ始めていました。

高田高校。ここでは十数名の高校生が亡くなったそうです。

当時の生々しい張り紙は今でも残っていて、 また名前の書かれたたくさんの備品や個人の持ち物も散乱していました。 この高校を見て、ようやく人々の暮らしの断片に触れたような気がして、 こみあげてくるものがありました。 もちろんそれまでの景色にもさまざまな感じるものがあったし、 悲惨さに開いた口もふさがらなかったけれど、 それはもう、「唖然」といった感じで 衝撃にただただ圧倒されていました。 だけどこの高校での生々しい光景、 いまだに揺れ続けていたカーテン、 たくさんのお供え物、 捜索終了の書置き、 とにかくそれらすべてに当時の人間の気配を感じざるを得ず、 ただただ涙が止まりませんでした。

この日は奇しくもちょうど母の日。 当時避難所に指定されていて避難した多くの人が流されてしまったという建物に、 カーネーションが供えられていました。 この震災でたくさんのものを亡くした多くの方々、 正直どれほど話を聞いて、どれほど現場を見ても その方たちの心中を完全に理解することはできませんでした。 でも、少しだけど、気持ちを共有させてもらうことはできたんじゃないかなと思っています。 最後の日の夜、声をかけてくれた地元のおばあちゃんのおうちに招かれ、 こたつを囲んでいろんなお話をしました。 たくさん感謝の言葉を述べられましたが、 感謝しなければいけないのは本当は私たちのほうだったと思います。 正直よそ者である私たちボランティアが現地にいきなり行って ひまわりを植えることが、果たしてどれほどの意味がある行為なのか 半信半疑でした。 自己満足?エゴ? そんな風に思う気持ちが全くなかったといえばうそになります。 でも地元の方々は夏に大輪の花を咲かせるであろうひまわりに、 ずいぶんと希望や力をもらうのよ、と誰もが口をそろえておっしゃってくれました。 福岡から、わざわざ来てくれたことがうれしいのよ、と。 ゆくゆくはひまわり油としての製品化もできたらなおやった甲斐がありますが 現段階ではいろいろと壁も多く、それはまだ先になりそうな予感・・・ でもこのひまわりが陸前高田の未来を照らす、復興の足掛かりになることを祈って。 福岡に帰って余った種をさっそく学務課へ持っていくと、 大橋キャンパス、また大橋界隈にも蒔いてくださるそうです。 福岡でも陸前高田と同じひまわりが立派に咲くといいなー。

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